華-Hana-の躁鬱↑↓物語

またまたリニューアル!母だし労働者だし飼育者……なんだけど、生涯自分探しの旅Blog

東日本大震災を思い出す

地震ありましたね。

 

こちらは震度5の地域でした。

我が家は地震の影響で、廊下のドアが閉まりにくくなってしまいました。

それ以外は物も落ちたりせずに大丈夫でした。

 

 

久しぶりに長い揺れだったので、とっさに子供を抱えました。猫のゲージも用意しようか悩みました。

何人かと、「大丈夫だった?」のやり取りをしました。

 

長く強い揺れは、東日本大震災を思い出します。

こちらは東日本大震災の被害も受けた地域です。 

一番ひどかった地域からは外れているのであまり報道には出なかったのですが、この地域も被災地なので、もっとテレビに映してあの日常をもっともっと伝えてほしかった。

その時のことを少し聞いてほしいです。

 

 

 

 

当時私は実家に住んでいて、夜勤明けで寝ていました。

 

地震が起きた瞬間は、いつものように気にせず様子を見ました。

けどあまりにも長く強くなってきて、これはマズイと皆で外に避難しました。

 

屋根の瓦が逃げたタイミングで落ちてきて、当たる寸前でした。

屋根の面積の半分の瓦が落下してしまいました。

でも一番被害を感じたのは、その後の生活からでした。

 

 

 

私は東京の友達の所に遊びに行く予定だったのですが、断りの連絡を入れました。

しばらく経つと、スマホの電波が圏外になりました。

ライフラインも全て使えなくなりました。

これはいよいよヤバイと思いました。

 

 

 

 

電気がつかないのでテレビが見れず、被害の状況が全くわかりませんでした。なのでてっきりここが震源地だとばかり思っていました。

また余震も続いていて、ずっと恐怖でした。

 

 

水も出ないので困って、とりあえず水や食料を買いに行こうと車を走らせました。

他の家も瓦礫が落ちていて、通れない道もありました。信号も消えていたので、交差点を運転する時は大変でした。

いくつかお店を探したのですが、しばらくはどこも開いていませんでした。

 

電気のつかない静かな寒い部屋で、お風呂にも何日も入れないまま、ロウソクの灯りだけを頼りに生活をしました。

当時私は車で1時間ほどの介護施設に勤めていましたが、施設内も各部屋のナースコールやセンサーマットが使えない為、ホールに利用者を集めて1箇所で見ました。

食材も届かないので、一食一人あたり茶碗一杯分の食事しか出せませんでした。

 

 

ガソリンスタンドは直前にラジオなどで開く所が伝えられ、時には朝6時から並びました。

散々待っても、途中でガソリンがなくなって入れる事ができずに帰ることが毎回で、いつもギリギリでした。

勤務先が遠いので仕事中にスタンドに行く事も許され、情報を掴んでは猛ダッシュで駆け込む日々でした。

 

お店も「今あそこのスーパー開いてるって!」と人づてに聞いては猛ダッシュです。

ぐちゃぐちゃな店内で、レジの人も2、3人しかおらず、やはり毎回長い列でした。

 

 

一番悲しかったのは、用事で海沿いの地域に行った時、崩壊した家の壁に子供っぽい字で

「どうかこわさないで」

と書いた横に、A4用紙で

「取り壊しを許可」の紙が貼ってあった事。

あまりにひどい状況で、涙が出てきました。

港町に住む友人は、家が流されてしまいました。

 

 

 

震源地からちょっと離れた私の地域ですらこの状況だったのです。

天災なので何を恨んでいいかもわからないですよね。

あれから10年ですか?かなり経ちますが、もうボケてしまった祖母の記憶にもいまだに色濃く残っています。

 

 

その記憶が蘇る、昨日の地震でした。

猫達も夜通しソワソワしていました。

 

 

あれから、その時の経験を活かして我が家では災害セットはバッチリ揃えています。

猫2匹が余裕で入れる折り畳み式のゲージも。

この子達を置いて行くなんて、絶対できないから。

 

何があっても、守るからね。