華-Hana-の躁鬱↑↓物語

またまたリニューアル!母だし労働者だし飼育者……なんだけど、生涯自分探しの旅Blog

12年の時を経て

東日本大震災

この日を忘れぬように…

 

 

 

 

年に一度、今年は一人家の中から手を合わせました。

毎年のことです。

 

 

娘は隣でお昼寝中。ここにいる猫達3匹も、あの地震を知りません。唯一知っている実家の猫「金太郎」も、年老いてさらに背骨が丸くなってしまいました。

 

 

当時私は自分の地域が一番被災したのだと思っていたのでとにかく自分の事に必死で、家族と職場の安全確保に努めていました。情報も遮断されていたので何も知らず、まさかこんなに死者が出ていたとは…

 

 

そんな中、私の夫はすぐに宮城県に向かったそうです。

今回は夫から聞いた、12年前のとあるお話。

 

 

 

夫が向かったのは石巻市。多数の犠牲者を出した「大川小学校」のある町だそうです。

 

 

自分の名前が言えずに身元がわからなかったり、認知症をはじめ様々な事情で家族と共に暮らすことができない高齢者の集まる避難所での介護をしました。介護といっても身体的には皆バリバリ元気だそうで、どちらかというと精神的なケアを必要とする人ばかりだったみたいです。

 

 

この辺のボランティアに来た人達はだいたいがこの避難所に集められ、まず最初に言われることが

「で?あんたは何ができるの」

でした。すごい冷たく感じた地元の方の反応の理由は、後にわかったそうですが。

 

 

とにかくそこから休憩時間も煙草を吸う暇もなく、任された避難所内で衣食住を共にしながらお風呂にも一緒に入る生活をしていたそうです。

 

一応規律というか、この時間にこれをやるみたいな決まりはあったそうなのですが、鍵の無い建物が複数、職員はかなり不足していて、脱走するのは高齢者だけではない…実際にはボランティアこそ簡単にトンだと言います。

 

 

次第に「もう手伝えない」というボランティアに、人手不足から「どうにかもう少しだけ手を貸してほしい」と頼むのも夫の役割になっていて、逃げてしまった両者の所在確認もしなければならず車や自転車でずいぶんと探し回ったそうです。

 

 

「探そうにも目印が無いんだよね、被災地だから。大概は1ヶ所だけやっていたコンビニで見つかるんだけど、精神を病んで帰って行く人もいた」

 

 

高齢者も、皆が皆とにかく不穏。

ただでさえ環境の変化に不安になるのに震災の恐怖。例え震災という出来事は忘れても、恐怖を味わったあの「感覚」は忘れないものです。

 

その不穏な高齢者の対応や拘束時間に疲れ、夫も「睡眠時間が無さすぎて参った」と。

でも結局途中で投げ出す事なく誰かの役には立てたこと、私は尊敬します。

 

 

実は夫には眉間に大きな傷があります。

未成年時代、ある日道を歩いていたら襲われている女性を発見し、止めに入ったところ男から木刀で頭を叩かれひどく出血し、8針縫ったのです。

その話を聞いたのもわりと最近のことです。

同じ「人助け」だとしてもこちらは一歩間違えば夫が命を落としていたかも…

 

 

私は、例え予期していても大切な人を失くす悲しみは絶大で。だけど天災は突然です。それも、誰かが犠牲にならないと教訓となりません。

 

 

娘にはあの出来事をしっかりと伝えていこうと思います。

それがあの時何も支援できずに悔やむ者からの、一番命を守る術だから。

 

 

皆さんはどんな気持ちで震災の日を過ごしましたか?

私は…なんだか今日は、しみじみと考えてしまいました。